毎週土曜日は…(No.4)

皆様、こんにちは。
「伝承の家」の福島屋です。

第4回目がやってきました。

引き続き、『神様のお話』をしていきます。

 

今回は前回に引き続き、「三大怨霊」の2人目を取り上げたいと思います。

学問の神様として広く知られる「菅原道真」です。

修学旅行などで京都に行かれた際に、北野天満宮にお参りをされた方も多いのではないでしょうか?

日本一有名な秀才と言っても過言ではないこの人もまた、壮絶な人生を経て神様となっています。

 

道真は代々続く学者の家系に生まれました。

当時の学問と言えば、儒教・漢学が主であった為、

漢学に詳しい菅原家は、代々有力者の下に付くほど有名だったそうです。

 

そんな中、道真は漢学を学ぶために勉学に励み、今でいう大学に18歳で合格し、

40人いるうちの特に優秀な2人のうち1人に選ばれました。

そんな努力家な道真はその後も次々と出世をしていきます。

33歳で遂に天皇や貴族に助言をできる地位にまでのぼりつめ、

37歳の時に父親が死去すると家業の私塾を継ぎます。

菅原家の私塾は優秀な人材を多く輩出する!と評判となり、一大勢力になりました。

 

順調に出世の道を進んでいる道真は、讃岐の長官も勤めます。

重い税や労働などに苦しめられている人々を目の当たりにした道真は

国を立て直す政策を行い、政治家としても大活躍しました。

 

帰京した道真は、当時の天皇である宇多天皇に要職を任せられます。

この背景には、当時権力を振るっていた藤原氏をけん制する狙いがあったとされています。

宇多天皇が譲位した後も出世を重ね、遂には右大臣にまでのぼりつめました。

しかし、学者の身分の者が右大臣になることは異例中の異例であり、貴族の猛反発は避けられませんでした。

 

後ろ盾であった宇多天皇は出家し、貴族からの猛反発…

道真の置かれた立場はとても厳しいものでした。

そんな中、左大臣であった藤原時平がこんなことを醍醐天皇の耳に入れました。

「道真は現天皇(醍醐天皇)を廃位させ、娘婿を即位させようとしている」

根拠はなかったとされていますが、醍醐天皇は真偽を確認せずに道真を太宰府に左遷しました。

 

「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

春の東風が吹くようになったら、花を咲かせ香りを届けておくれ。

私がいなくても春を忘れないでいておくれ。

 

この歌は左遷された際に道真が詠んだ歌です。

道真が暮らしていた屋敷には梅の木があり、とても愛情を注いでいたのだそう。

この歌を聞いた梅が、一晩で太宰府まで飛んだとされる「飛梅伝説」も残されています。

 

大宰府では貧しい生活を強いられながら、天に無実を訴えていましたが、

2年を過ごした頃、病にかかりその生涯に幕を下ろしました。

 

道真が亡くなってから京都では不穏な事件が起こり始めます。

道真を左遷に追いやった張本人である藤原時平が死去、

皇太子が若くして死去、さらに次の皇太子も若くして死去。

そして「宮中落雷事件」が起こります。

朝議の最中、清涼殿が落雷を受け、朝廷の要人が多数死傷し、

これに衝撃を受けた醍醐天皇は体調を崩し、わずか三か月後に亡くなります。

ちなみに落雷で死傷した人物の中に、道真の左遷後の監視役も含まれていたと記録されています。

 

これらの事件が道真が亡くなり、程なくして発生したことで

「道真の祟り」として広く知れ渡りました。

人々は道真の祟りを恐れ、怒りを鎮めようと神様として祀ることにしました。

 

道真と言えば北野天満宮・太宰府天満宮が有名ですが、

「天神」は人々に災いを与える荒ぶる神のことで

「天満」は道真の怒りが天に満ちた という意味なんだそう。

どちらも道真を指す言葉なので、死後も厚く広く信仰を集めていたことが分かります。

 

当初は怨霊としての認識が強かったのですが、

時代とともに道真の人柄や人間性に目を向ける人が増え、

現代でも「学問の神様」として信仰を集めています。

 

 

さて、今回も長々と来てしまいましたがここまでです。

次回もお楽しみに!