毎週土曜日は…(No.3)

皆様、こんにちは。
「伝承の家」の福島屋です。

 

今週も引き続き、『神様のお話』をしたいと思います。

本日は3回目ということで、より深く掘り下げていきたいと思います。

今回は「崇徳天皇」が神様になるまでを追っていきます。

崇徳天皇は日本三大怨霊としても知られている通り、祟りから生まれた神様です。

 

崇徳天皇は生い立ちからかなり複雑でした。

まず、崇徳天皇の父は鳥羽天皇、祖父は白河天皇です。

不幸はここから重なっていきます。

崇徳天皇は本当は白河天皇の子なのでは…?という噂が立ち始めるのです。

というのも崇徳天皇の母はかつて白河天皇に仕えていたこともあり、鳥羽天皇自身が初めから疑っていたのだそう。

崇徳天皇を疎んでいた鳥羽天皇は自分のお気に入りの后が子を産むと、

崇徳天皇を退位させ、その子を天皇にします。

そうして即位したのが崇徳天皇の弟・近衛天皇です。

しかし、近衛天皇は生まれつき病弱で17歳の若さで亡くなります。

後継者に崇徳天皇の息子は無視され、再び崇徳天皇の弟にあたる後白河天皇が即位します。

そうして鳥羽天皇による崇徳天皇の排除が行われてきましたが、事態は急展開します。

鳥羽天皇が病に倒れます。崇徳天皇はお見舞いに行ったりと歩み寄ろうとしますが、

鳥羽天皇は面会を頑なに断り、ついに亡くなります。

この時鳥羽天皇は、崇徳天皇には絶対に自分の遺体を見せるなと側近に命令していました。

 

ここで、崇徳天皇の堪忍袋の緒が切れました。

鳥羽天皇没後は、兄・崇徳天皇VS弟・後白河天皇の構図が出来上がります。

そしてついには武士や朝廷を二分し、「保元の乱」が起きます。

戦いは平清盛や源義朝を味方に付けた後白河天皇の勝利に終わり、

朝廷に捕らえられた崇徳天皇は罪人として島流しの刑に処されます。

流された先の讃岐では欲を捨て、仏教を深く信仰し、

保元の乱の反省と犠牲者の供養のために写経を行い、後白河天皇に送りました。

しかし後白河天皇は「呪いがかけられているかもしれない」と疑い、受け取りを拒否しました。

これに怒った崇徳天皇は自分の舌を噛み切り、「日本国の魔王となり皇を取って民とし、民を皇とす」と誓い、

血書し海に沈めたとされています。その後崇徳天皇は失意のうちにこの世を去りました。

 

崇徳天皇の死後も朝廷は崇徳天皇を罪人として扱いました。

そして死から十数年経った頃、不幸な出来事が立て続けに起こりました。

後白河天皇の近親者の相次ぐ死、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀などが崇徳天皇の怨霊の仕業とされ、

恐れられた結果、崇徳天皇の罪人扱いはようやく解かれました。

しかし、朝廷の力は衰え、やがて武士の時代となります。

明治時代に入り、再び朝廷が力を取り戻すと明治天皇は

讃岐の崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させ、白峰神宮を創建させました。

時代とともに崇徳天皇の名誉は挽回され、現代では神様として崇められ信仰を集めています。

 

崇徳天皇はこの世に生まれ落ちてから亡くなるまで、その一生は波乱に満ちていますが、

その中でも実は歌人として人気があったともいわれています。

何一つ思い通りにいかない中で、歌を詠むことが唯一の癒しだったのかもしれません。

 

歌の一つに、百人一首にも登場している

「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」という歌があります。

意味は、「川の流れがはやいために岩にせき止められた滝川が時には二つに分かれても、

また一つになるように私達の間も後にはきっと結ばれるものと信じています」

崇徳天皇の生い立ちを知らなければ恋の歌とも取れますが……

 

さて、本日はここまでです。

今回は書いている私まで、なんだか切ない気分になってしまいました。

やはり知ることで見方は変わるものですね。

それではまた次回です。